記録に残る最古のペストの流行【ユスティニアヌスのペスト】を解説

   

 

ユスティニアヌス1世

有史以前から疫病は人類にとって大きな脅威であった。人や物の移動が活発になればなるほど、疫病の伝播の規模も広がり、その被害は拡大していった。
ユスティニアヌスのペストは、6世紀から8世紀にかけて、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を中心に地中海世界で繰り返し発生した、記録に残る最古のペストの流行とされている。発生した当時の東ローマ帝国の皇帝がユスティニアヌス1世であったことから、ユスティニアヌスのペストと名付けられた。
一説によれば、その犠牲者は全体で2500万人~1億人に及ぶと推測されているが、一方で、そこまで大きな被害はなかったとする説もあり、正確な数は不明である。
ユスティニアヌス1世自身もこの疫病に感染したが、その後回復し一命を取り留めた。

起源と感染経路

フン族の西方への移動

遺伝子工学による研究によれば、ペスト菌のDNAは、その起源が中央アジアにあることを示している。このことから、フン族などの遊牧民族が、中央アジアから東ヨーロッパへとペスト菌をもたらしたと考えられる。

ペルーシウムからコンスタンティノープルへと伝播

東ローマ帝国の歴史家プロコピオスは、この疫病は、西暦541年にナイル川河口に位置する都市ペルーシウムで始まった、と記している。当時、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは、エジプトから海路、陸路を通じて大量に穀物を輸入していた。その貨物の中にペストを保菌したノミやネズミが紛れ込んでおり、それがコンスタンティノープルでの流行に繋がったと考えられている。
プロコピオスの記録によれば、コンスタンティノープルで1日に最大1万人が命を落としたとされるが、現代の歴史家の中にはその数字の正確性を疑問視する向きもある。



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症状とその治療法

プロコピオスの記録によれば、その症状は、幻覚、悪夢、発熱、リンパ節の腫れ等であり、昏睡状態に陥る者もいれば、幻覚状態に陥る者もいたという。多くの者はそれらの症状が数日間続いた後に死亡したが、中には症状が現れてからすぐに死亡する者もいた。
治療法には2つの選択肢があった。1つは医療従事者による治療、もう1つは自宅療法であった。医療従事者の多くは、アレキサンドリアで4年間、四体液説に基づいた研修を受けていた内科医であった。ただし彼らが、この疫病の治療法に対する医学的な知識を持っていたかは疑問である。
金銭的な理由等で、上記の医療従事者による治療が受けられない場合は、必然的に自宅療法が選択されることになる。自宅療法では、水風呂に入ったり、聖職者から聖なる粉を振りかけられたり、魔除けのアクセサリーを身に付けたりと言う手法がとられた。当然これらにはなんら現実的な治療効果はなかったと考えられる。

東ローマ帝国に与えた影響

イエスに、ユスティニアヌスのペストに感染した墓堀人の助命を嘆願する聖セバスチャン

この疫病によって東ローマ帝国は、政治的にも経済的にも甚大な被害を受けた。国力が衰えた東ローマ帝国は、周辺の様々な民族からの侵攻を許す結果となった。また、疫病の蔓延によって農民の人口も減少したため、穀物の生産量や税収も減少した。しかし、ローマ帝国の再建と言う野心を掲げるユスティニアヌス1世は税金を下げることは無く、また死亡した農民が支払うはずであった税金を、その近所に住む者に肩代わりさせるなど、冷酷な政策を取った。
プロコピオスは、この疫病の原因はユスティニアヌス1世にあるとし、「ユスティニアヌス1世自身が悪魔であるか、もしくは彼の非道な行いを神が罰している」のだと述懐した。

ペストの流行は2世紀に渡って繰り返し続いたが、西暦750年を最後としてしばらくは終息し、再びヨーロッパでペストが流行するのは14世紀になってからのことだった。

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